2017年9月16日土曜日

讃州御国中村切高惣帳

1998年に初版を刊行した拙著「讃州御国中村切高惣帳」は、御国中村切高惣帳という土地台帳と生駒藩組分侍帳という分限帳を繫いで構成したものでした。
「讃州御国中村切高惣帳」に於いては、各郷村ごとの給人氏名を石高順に表記しています。そして、「讃州御国中村切高惣帳表計算篇」では、原文書表記の順に戻しました。その表計算データを元に、「宇足郡志」等、十三ほど刊行した讃岐全域に渡る郡志では、各地域をグラフ化致しました。用例として、宇足郡の法勲寺を添付致します。
こうした基礎的な作業を進めていく中で、当時の武将たちの心性に想いを馳せ、歴史と幾許かの繋がりを得てきたのが、僕の仕事でした。
地名と給人名と石高、これだけの表記から、様々な歴史事象を組み立てていくことが可能でした。この後、この仕事から、二十冊を越える新しい著作が誕生いたしました。古き佳き時代でした。
合掌。





付記
古文書講読の際、どうしても読めない箇所がございました。その夜、犬を連れて、公園を散歩しました。大きな楠がございます。そこが嘗ての一族の墳墓でした。神仏分離の際、移転を余儀なくされました。そこを通りかかった時、突風が吹き、大きな犬が尻尾を巻いてしまいました。その夜、甲冑を着た父祖が夢に現れました。そして、眼が醒め、書斎に行くと、綴じた筈の文書の懸案の箇所が開かれており、僕は読むことが出来ました。そうした経緯を経て誕生した書籍です。
合掌。 

2017年3月24日金曜日

レールモントフ(михаил юрьевич лермонтов)著  現代の英雄(герой нашего времени)

本スレッドの表題とした現代の英雄は、若き日々の僕の愛読書でした。十九世紀の露西亜に於いて、プーシキンがオネーギンを、レールモントフがペチョーリンを、そしてツルゲーネフがルージンをと、作家たちが、ほぼ、十年ごとに、その時代を代表する若者たちを描いて参りました。さほどに、当時の露西亜(貴族社会)では、若者たちの頭脳が鋭敏に動いていたのでした。
この僕の露西亜に関する読書遍歴は、最終、レオンチェフ、ベルジャーエフ、フランク、ゼンコフスキー、ロスキー、カルサーヴィン、トルベツコイ、アレクセーフ、ノウゴロヅツェフといった、文学者ではなく哲学者の著作へと向かうことになりました。
これ等、哲学者の著作については、日を改めて、ご紹介致すこととし、本スレッドでは、今も僕の書架を飾る幾つかの「現代の英雄」刊本の書誌を記してみようと思います。



画像 01葉から03葉。
ミハイル・レルモントフ著・高坂義之訳「現代の英雄(越山堂1920年刊)」
この翻訳が僕の書架では一番古いものです。但し独逸語からの重訳です。







画像 04葉から06葉。
ミハイル・ユリエーヴィチ・レールモントフ著・高橋昌平訳「現代の英雄(暁書房1949年刊)」
戦後すぐの出版故、紙質等が落ちますが、ロシア語からの直訳です。
合掌。






画像 07葉。
レールモントフ著・北垣信行訳「現代の英雄(日本評論社世界古典文庫1950年刊)」
世界古典文庫版(日本評論社刊行)の「現代の英雄」です。扉、奥付部分のスキャンは、本に損傷を与える危険がございますので中止いたしました。
世界古典文庫、学生時代、随分と求めたのでした。私が文庫嫌いなことは、以前記しました。然し、本文庫だけは求めざるを得なかったのです。単行本で刊行されなかった訳書が多々あったからです。
御茶ノ水に文庫専門店があったのですが、世界古典文庫に付された価格は眼が飛び出るほどでした。学生食堂で、定食90円、カツカレー80円、カレー・天麩羅うどん・天麩羅そば60円の時代に、文庫が二千円とか三千円とかしたのですから。
早く原文が読めるようになりたいと思わぬ日はございませんでした。

合掌。





画像 08葉。
レールモントフ選集 池田健太郎・草加外吉訳 光和堂1974年・1976年刊
僕が学部在学時、レールモントフ選集が刊行されました。夭折した詩人の半分近くの作品が収録されたのでした。
合掌。





画像 09葉から11葉。
ロシア語版レールモントフ全集です。学部在籍時に刊行が始まりました。思い出深い書冊です。
合掌。




2017年3月15日水曜日

梶川貴子著 鎌倉時代の政治的事件と得宗被官


予てより鎌倉北条氏家中の侍に関心を持っていた僕は、「新抄(外記日記)」、「白山宮荘厳講中旧録」、「圓覺寺文書」等々の文献を紐解いてきた。そして、昨日、梶川貴子氏の博士論文、「鎌倉時代の政治的事件と得宗被官」の存在を知った。このブログでは、読了した書冊のみの紹介を行ってきたのだが、本スレッドでは、特例として、これから読もうと思う書籍について記してみた。さほどに、これからの講読が愉しみなのである。
合掌。

参考
白山宮荘厳講中旧録(1-01)
嘉禄三年四月廿七日 大桑讃岐次郎光行 白山神主職被補■ 是雖非重代依米永氏澄之譲故歟 
同年四月廿九日 自越後守殿 平朝臣朝時 当国御家人勤之 百騎笠懸兩社大刀令進勤仕■ 奉行御使者合田六郎 是等事偏依有御躰夢想之告令勤仕者也

永井晋著 金沢貞顕


先ほど、永井晋氏の著された「金沢貞顕」の講読を終えた。名著だと思った。僕は、鎌倉幕府の最終過程を知りたかった。正直、何故、あれほど呆気なく滅んでしまったのか、分からなかったからである。
後世の露骨な南朝史観によって、北条氏の果たした役割が軽視され、理解されずにいる。残念なことである。
元寇の危機から日本を救い、引き続き異国警固(海防)に務めた北条氏の功績を顕彰することは、とても大事なことである。京に於ける皇統争いを巧みにカムフラージュした南朝史観を続けている限り、現在の外敵への脅威も、その真実を見る目は育たないだろう。
立派な先達を立派だと言える國にならなければいけない。
合掌。




追記
永井氏の今一つの著作、北条高時と金沢貞顕、比較的頁数の少ないものだったので、昨夜から一気に読み進んだ。良書だと思う。八木書店から刊行されている他の著作についても、是非、紐解きたいものである。
合掌。







永井晋氏が、素晴しい研究者であること、ご高著を読み進める過程で実感した。本書、鎌倉源氏三代記も、実に、瞠目すべき書冊である。以下、著者の記されたあとがきの一部を、引用させていただく。
合掌。

あとがき
本書は、源頼朝の挙兵から承久の乱にいたる、源家将軍とその藩屏たる源家一門の歴史を綴ったものである。鎌倉という閉じた世界の中で頼朝・頼家・実朝の三代記を叙述するのであれば、誰にとってもなじみのある筋書きで叙述したであろう。しかし、最後までお読みいただいた方ならお気づさと思うが、一般書でよく紹介される話をサラッと流し、その脇役を演じた人々に手厚い叙述をすることで、思わぬ角度からの切り込みをいくつも入れている。それはひとえに、政治史と官僚制度を研究し続けてきた筆者の研究歴が磨いてきた史料読解のなせる技といえる。
治承・寿永の内乱が始まったとき、河内源氏の本拠地から離れた伊豆に流されていた源頼朝は平氏政権から忘れられた存在であったが、身内の三善康信が状況判断を誤って逃げろと忠告したことで挙兵を決意した。平氏政権はたしかに源頼政が知行国として二十年にわたって治めてきた伊豆国に残る勢力を警戒していたが、在国した頼政の孫有綱が奥州藤原氏を頼って出奔したことでその警戒を解いた。新しい時代を切り開くドラマチックな始まりではないが、有綱出奔で手じまいにしまうとした平氏政権の油断と、自分がすでに過去の人になっていると気づかない頼朝の挙兵という二つの判断ミスが重なって、鎌倉幕府草創という大きな事件へと発展していくのである。平清盛が有綱と頼朝の二人が謀叛の張本だから捕らえよと大庭景親に命じていたら、あるいは頼朝が康信の心配を杷憂だと笑って取り合わなければ、本書に記すような展開はそもそも始まらないのである。
本書には、このような話が随所に出てくる。それは、筆者ができるだけ素直に、そのときの政治的あるいは軍事的状況に即して判断し、鎌倉幕府成立史論・執権政治成立史論のような発展段階説にのっとった決定論的理解を排除しようとしたためでもある。また、本シリーズの規模が規定するであろう登場人物の数よりも、おそらく多くの人物を准主役級として登場させている。それは、政治というものが影響力の強い特定の人物によって左右されるものではなく、ある種の星雲状態を形成することで成り立っていた均衡が、何かのきっかけによって崩れたときには特定の方向に急激に流れ出す傾向を示すためである。
元暦元年の一ノ谷合戦は、後白河院の謀略なしには源氏が勝てなかった合戦である。この合戦の勝敗を分けたのは、院が和平の使者を派遣すると称して源範頼の軍勢を福原京まで前進させたことで、平氏は院の使者を護衛する軍勢に先制攻撃をかけることを控えていた。建仁三年の比企氏の乱でも、その直前までの政治的駆け引きは二代将軍源頼家の義父比企能員が優勢であり、北条政子は頼家が昏睡状態に陥ったのを機に幕府の権力を掌握し、すべての事を処理してしまった。人と人が織りなす政治的な駆け引きを捨象し、政治史を制度の歴史としてしまったところに、政治史の叙述が貧困になった大きな原因がある。

2017年2月23日木曜日

井上進著 中国出版文化史



本書を紐解いたのは、刊行直後であったと思う。未踏の領域に踏み入れた緊張と興奮、そして、感動であった。本書は、末永く記憶しておきたい書籍の一つである。
合掌。

2017年2月21日火曜日

淮南子箋釋





淮南子箋釋は、全二十一巻から構成されており、禮、樂、射、御、書、數の六分冊に、それぞれ数巻ずつ配されている。その内訳は、以下の通りである。

分冊「禮」所収巻
巻一 原道訓(十四丁) 
巻二 俶眞訓(十二丁)
巻三 天文訓(十五丁) 
巻四 地形訓(十丁)

分冊「樂」所収巻
巻五 時則訓(十五丁) 
巻六 覽冥訓(八丁)
巻七 精神訓(十丁) 
巻八 本經訓(十丁)

分冊「射」所収巻
巻九 主術訓(十九丁) 
巻十 繆稱訓(十一丁)
巻十一 齋俗訓(十四丁)

分冊「御」所収巻
巻十二 道應訓(十六丁) 
巻十三 氾論訓(十八丁)
巻十四 詮言訓(十一丁)

分冊「書」所収巻
巻十五 兵略訓(十四丁) 
巻十六 説山訓(十三丁)
巻十七 説林訓(十一丁)

分冊「數」所収巻
巻十八 人間訓(十八丁) 
巻十九 脩務訓(十二丁)
巻二十 泰族訓(十五丁) 
巻二十一 要略(六丁)

本書は、荘逵吉が乾隆五十三年(1788年)に刊行した「荘逵吉校訂本」を底本に、澁谷啓藏が訓點を施し大野堯運(報告堂書舗)が、明治十八年、東京で上梓(復刊)したものである。
今日では、文献学(校勘学)も進み、澁谷氏が底本に使用した「荘逵吉校訂本」を善本と見做すことは出来ないようである。然し、明治以降、激変した我が国の学問風土の中で、日本の漢学の最終過程に位置する著作の一つとして、本書に注目することは、無意味ではなかろう。(現在、我々は、「淮南鴻烈集解」、「淮南内篇集証」等の新しいテキストを手にすることが出来る。)
校訂者の澁谷啓藏は、近江彦根藩出身の漢学者である。亦、大野堯運は、明治期の出版人で、今日でも 幾つかの刊行物を確認することが出来る。
僕が所蔵する原本の法量は、縦23.6cm、横15.0cm。その表紙には、薄茶色の和紙が使用されている。
合掌。

2017年2月11日土曜日

吉川弘文館刊行 戦争の日本史

吉川弘文館、素晴らしい出版社である。僕の愛読書、佐伯有清著「新撰姓氏録の研究・全十巻」も、吉川の出版物である。
僕は、ここ暫く、自らに足りないものの補充に努めている。それは、東北史である。東北の歴史を学ばない限り、自らの学問が充足していかない、そう思い始めたからである。
そうした僕の佳き導き手、話し相手となってくれているのが、「戦争の日本史」である。僕は、その第二・三・四・五・六・七・十巻に、大変お世話になっている。
以下の画像は、吉川弘文館のホームページからの借用。
合掌。










追記
先の七冊の読了後、第一巻の「東アジアの動乱と倭国」を紐解いた。良書であった。
合掌。