新潮社より、昭和31年に刊行された竹山道雄氏の「昭和の精神史」より、その冒頭部分を画像データにて、ご紹介申し上げます。併せて、第10頁の一部をテキストにて添付致します。
合掌。
歴史を解釈するときに、まずある大前提となる原理をたてて、そこから下へ下へと具体的現象の説明に及ぶ行き方は、あやまりである。歴史を、ある先験的な原理の図式的な展開として、論理の操作によってひろげてゆくことはできない。このような「上からの演繹」は、かならずまちがった結論へと導く。事実につきあたるとそれを歪めてしまう。事実をこの図式に合致したものとして理解すべく、都合のいいもののみをとりあげて都合のあるいものは棄てる。そして、「かくあるはずである。故に、かくある。もしそうでない事実があるなら、それは非科学的であるから、事実の方がまちがっている」という。
「上からの演繹」は、歴史をその根本の発生因と想定されたものにしたがって体制化すべく、さまざまの論理を縦横に駆使する。そして、かくして成立した歴史像をその論理の権威の故に正しい、とする。しかし、そこに用いられている論理は、多くの場合にはなはだ杜撰なものである。