2017年3月15日水曜日

永井晋著 金沢貞顕


先ほど、永井晋氏の著された「金沢貞顕」の講読を終えた。名著だと思った。僕は、鎌倉幕府の最終過程を知りたかった。正直、何故、あれほど呆気なく滅んでしまったのか、分からなかったからである。
後世の露骨な南朝史観によって、北条氏の果たした役割が軽視され、理解されずにいる。残念なことである。
元寇の危機から日本を救い、引き続き異国警固(海防)に務めた北条氏の功績を顕彰することは、とても大事なことである。京に於ける皇統争いを巧みにカムフラージュした南朝史観を続けている限り、現在の外敵への脅威も、その真実を見る目は育たないだろう。
立派な先達を立派だと言える國にならなければいけない。
合掌。




追記
永井氏の今一つの著作、北条高時と金沢貞顕、比較的頁数の少ないものだったので、昨夜から一気に読み進んだ。良書だと思う。八木書店から刊行されている他の著作についても、是非、紐解きたいものである。
合掌。







永井晋氏が、素晴しい研究者であること、ご高著を読み進める過程で実感した。本書、鎌倉源氏三代記も、実に、瞠目すべき書冊である。以下、著者の記されたあとがきの一部を、引用させていただく。
合掌。

あとがき
本書は、源頼朝の挙兵から承久の乱にいたる、源家将軍とその藩屏たる源家一門の歴史を綴ったものである。鎌倉という閉じた世界の中で頼朝・頼家・実朝の三代記を叙述するのであれば、誰にとってもなじみのある筋書きで叙述したであろう。しかし、最後までお読みいただいた方ならお気づさと思うが、一般書でよく紹介される話をサラッと流し、その脇役を演じた人々に手厚い叙述をすることで、思わぬ角度からの切り込みをいくつも入れている。それはひとえに、政治史と官僚制度を研究し続けてきた筆者の研究歴が磨いてきた史料読解のなせる技といえる。
治承・寿永の内乱が始まったとき、河内源氏の本拠地から離れた伊豆に流されていた源頼朝は平氏政権から忘れられた存在であったが、身内の三善康信が状況判断を誤って逃げろと忠告したことで挙兵を決意した。平氏政権はたしかに源頼政が知行国として二十年にわたって治めてきた伊豆国に残る勢力を警戒していたが、在国した頼政の孫有綱が奥州藤原氏を頼って出奔したことでその警戒を解いた。新しい時代を切り開くドラマチックな始まりではないが、有綱出奔で手じまいにしまうとした平氏政権の油断と、自分がすでに過去の人になっていると気づかない頼朝の挙兵という二つの判断ミスが重なって、鎌倉幕府草創という大きな事件へと発展していくのである。平清盛が有綱と頼朝の二人が謀叛の張本だから捕らえよと大庭景親に命じていたら、あるいは頼朝が康信の心配を杷憂だと笑って取り合わなければ、本書に記すような展開はそもそも始まらないのである。
本書には、このような話が随所に出てくる。それは、筆者ができるだけ素直に、そのときの政治的あるいは軍事的状況に即して判断し、鎌倉幕府成立史論・執権政治成立史論のような発展段階説にのっとった決定論的理解を排除しようとしたためでもある。また、本シリーズの規模が規定するであろう登場人物の数よりも、おそらく多くの人物を准主役級として登場させている。それは、政治というものが影響力の強い特定の人物によって左右されるものではなく、ある種の星雲状態を形成することで成り立っていた均衡が、何かのきっかけによって崩れたときには特定の方向に急激に流れ出す傾向を示すためである。
元暦元年の一ノ谷合戦は、後白河院の謀略なしには源氏が勝てなかった合戦である。この合戦の勝敗を分けたのは、院が和平の使者を派遣すると称して源範頼の軍勢を福原京まで前進させたことで、平氏は院の使者を護衛する軍勢に先制攻撃をかけることを控えていた。建仁三年の比企氏の乱でも、その直前までの政治的駆け引きは二代将軍源頼家の義父比企能員が優勢であり、北条政子は頼家が昏睡状態に陥ったのを機に幕府の権力を掌握し、すべての事を処理してしまった。人と人が織りなす政治的な駆け引きを捨象し、政治史を制度の歴史としてしまったところに、政治史の叙述が貧困になった大きな原因がある。

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